ヒットという化学反応
新しい番組について、政策会議が始まる。
視聴者はどんなニーズをもとめているのか。
まず人気のある俳優を使おうとする。その俳優の魅力を引き出す作品を考える。これってどうなのだろう。作品が薄っぺらになって、面白みに欠ける気がする。
今話題の小説や人気アニメそして、人気脚本家の書き下ろし作品等々をぶつけてみるが、一番化学反応が起きやすいのは、共演する俳優陣ではないかと思う。一つのドラマは、オーケストラの演奏に似ている。絶妙なハーモニーが融合して、想像以上の感動を与える。
一人一人が主役である。その人その人の持ち場で生き生きと演じているので、それぞれが魅力にあふれる。結果、ドラマに重厚さが生まれる。
本来主役とか脇役の区別をつけるのは、おかしな話だと思う。すべての役割は同じように重要である。
作品の成功に対する共演者の思いが同じように強く、お互いが妥協を許さないという真剣さは、見てるこちら側にも伝わる。
いくら人気俳優を使っても、展開が想像できてしまうような薄っぺらい作品は最後まで見る気になれない。もちろん確かな演技力も必要である。
私は、コメディが好きなのだが、お笑いの延長のようなのではなく、人生の機微をウィットにとんだ言葉でやり取りするようなドラマ。イマイチ言い難いが・・・。
ちなみに俳優は大泉洋が好きである。
最近のテレビはクイズ番組や情報番組が増え、だんだんインターネット型番組になってきている。イマイチな感じがする。
私は、所さんの番組で「ダーツの旅」のような視聴者参加型のテレビが面白いと思う。作り物でない偶然の面白さがあって、テレビから飛び出したテレビの時代が来るような気がする。
テレビの外にいる人のほうがよほど面白いと感じることがある。作りすぎる手法に飽き飽きしてきているのだ。
これは、私が好き勝手に言っているので、反論も多々あると思われます。
適当に読み流してください。
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お題「健康」私は、今のところ健康に恵まれありがたい毎日を送っている。大きな怪我もしていない。大切に思っている家族も無事に生きていることにも感謝したい。
経済的には恵まれないのでそれで人生のバランスが取れているのかもしれない。パーフェクトな人生はありえないと思っている。得をしたり損をしたり上がったり下がったりデコボコの時間空間をさまよっている。
私は、こうでなければならないという縛りを持つことはあまりない。さもありなんという自由スタイルを維持している。
私が思うに、病気もケガも90パーセント以上は自分原因のような気がする。心をできるだけ柔らかに保つようにすれば、未然に回避できることは意外とある気がする。
もともと自然治癒力や危険を察知する能力が備わっているのに、わざわざその力を減退させる方へと向いていっているのではないだろうか。
商業主義に踊らされて、すぐに新しいものに飛びつくのはどうなのだろう。
最近、私は除菌99パーセントというキャッチコピーが気になっている。
菌が人間にとって無益だと短絡的に決めつけてなくしてしまうという考えは、正しいのだろうか。
人体にとって多少の弊害は、むしろ抵抗力の強い丈夫な体を作ることだとしたら必要悪なのではないだろうか。アトピーやアレルギーという現代病は、人間の根源の生命力の低下からきているとしたら、子供たちのことがとても心配になる。
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バナナは好きなのだけれど皮をむくのが抵抗がある。特に青いうちから収穫して店頭に並ぶバナナは、渋いというか、ちょっと表現しにくい感覚がある。せっかくのマイルドバナナが、さび付いた皮で覆いつくされ、うまさが半減する。
出回ったばかりの頃のバナナは本当においしかった。なんでこんなにまずくなったんだろう。熟す前の青いうちに取って製品にするからではないかと思う。全く味見することなく出しているとしか思えない。
ようやく最近気付き始めたのか、改良されてきている。それでも昔の味とは少し違っている。他の果物はどうかというと品種改良が盛んにおこなわれているせいか、甘みは際立ってきている。しかし最近は果物が高級品でなかなか口にできない。其のストレスを果汁グミで補っているが、なんでもコンパクト化されていくという時代の不安感を少し持ってしまう。
これは「どうだ」と言ってモノを売る側は投げかける。それを我々消費者側は選んで買う。最終的に責任は自分たちにある。
売る側は必至だ。あの手この手と知恵を使い企業努力を惜しまない。時にはアウトローなこともやる。それを受ける我々は同じように正しい情報を見極められるように賢さを磨いていかないとだまされて嫌な思いをする事になる。
だます人は悪いと相手側の非を責めてばかりもいられない。自分の身は自分で守らねばならないのだから、ボヤっとはしていられない。
タブーはないのかハダカ芸
風当たりが強いということは、それだけ前に出ているからだ。周りに影響力を与えている証拠なのだろう。政治的なことは別にして、阿部総理大臣のご夫婦は、ほほえましく思う。直接はもちろん知らないが、映像や話し方や小耳にはさむ情報など総合して、ご夫婦のきずなの確かさを感じる。お互いが自立した考えを持ちながら、互いの立場や意思を尊重し、なおかつ尊敬を仕合うことはなかなかできるものではない。安倍総理は、歴代の総理の中では一番人間としての品格を感じる。あくまでも表面から受ける感じではあるが・・・。人間はえてして、良いことはあまりほめないが、誰かが何かを失敗すると蜂の巣をつついたように避難する。政見放送を聞いていると争点がずれていると感じることがある。批判のための批判で、中身がない。もっと理路整然に論破できる野党の議員はいないものかと思う。人の揚げ足取りとか、人間批判とか聞くに堪えない。ゆっくりと優しい言葉でも本質をつけば、相手の気持ちを揺さぶることはできる。特に女性は自分の特質を殺して、男性のようにやっても見苦しいだけである。
ところでお笑いグランプリで優勝したアキラ芸
これはもうタブーでしょう。
失敗したら犯罪になる芸は、これを許しているテレビ業界病んでませんか?
発想自体はよいが、現実やれるものではない。
きわどすぎる。
何でもありの世界に、誰かストップをかける勇気を持たないとと思っている私は、考えすぎでしょうか。
目の上のタンコブ
必ず自分にとって、邪魔な存在(目の上のタンコブ)というものがある。
それは相手にとっても同じことで、できることなら避けたいが、きっと無理なのだろう。数々の職場を経験したが、私の場合、同僚との諍いはないが上の立場の人から敬遠される。
そのことで、自分ってどういう人間なのか自己分析してみた。
自立心が旺盛で、甘え下手。とにかく人に迷惑をかけるのが嫌い。借りを作りたくないので、おごられるのは嫌い。プライドが高く、負けず嫌い。
こうやって書いてみると,はあは~ん、なるほどね。確かに扱いにくい人物かもしれない。一生懸命、真面目に仕事をしてもあまり報われない。
私とは逆に、人間世界をスイスイ渡り歩くつわものがいる。もしかして優秀な技能より、かわいがられる才能の法が、価値があるかもしれない。
とは言え、持って生まれた気質は変えられない。嫌われながらも生きていくしかない。
テレビでアナ雪をやっていた。「ありのままの自分でいい」という歌詞に共感した人は大勢いたと思う。自分のことが嫌いになることは、長く生きていると誰でも一度はある。
すべての人が嫌いになってもせめて自分だけは、自分のことを好きでいなくてはかわいそうである。
マイナー志向をクイックさせよう!!
人に媚びずに自由に生きるのも悪くないのだから。
心の声を
ブログにはどうやら相性があるようです。
5か所ぐらい渡り歩いて、ようやくここにたどり着いたという感じです。
それぞれ目的が違って、どうもしっくりとこない状態が続きました。
私自身、ブログを書く理由が見つからなかった。
どうせ書くなら、お小遣い程度でも稼げたらいいな~と、淡い期待を抱いてしまったのが間違いでした。
人生そんなに甘くない。
というか仮想世界で、現実に求めるものを物質化することの難しさを知りました。
ネットビジネスは、実態があるようでないような、つかみどころのない世界である。
素人が足を踏み入れるところではない。
くわばら くわばら ・・・。
稼ぐどころか、稼ごうと思うほどお金は吸い取られていく。
知らないことが餌食になる。
高い授業料を払って、教えてもらったと思うしかない。
目覚ましく進化していく機械の操作を、ある程度こなすことから始まるのだから、ついて行けるわけがない。
無理、とても無理!
しかし、時代は待ってはくれない。
どんどん先に行ってしまう。
年老いていく人々のことは、眼中にない。
合理化、機械化は当たり前のように現実化していく。
忙しさは、エスカレートしていく。
人生急いで生きたら、倍、生きれるというのか。
人より先に行って手にできるものって、何なのだろう。
人はそのために必死になって生きている。
例え目的は達成しても、同じくらい失っているものもある。
お先にどうぞと言って、自分の人生をゆっくり味わって生きるのも悪くない。
ご隠居にならないとそれも難しいか・・・。
競争に打ち勝たないと生きていけないというのは、絶対的法則のような気もする。
生きるということはそういうことなのか。
合理化、機械化の産物であるパソコンで有益と思われるのは、検索とブログ機能ではないだろうか。
ブログは、心の声を形にできる。
私としては、自分本位で勝手な文章を書いて、目にする方には大変申し訳なく思いますが、
これからもお付き合いのほど、よろしくお願いします。
未来快適空間
みんなは忘れている。
自分が間違いなく年老いていくことを。
老人にとって快適な未来は、自分たちのためのものでもあるのだ。
決して他人ごとではない。社会の片隅に追いやられる弱者の姿は、自分たちの未来の姿だ。若いという特権に胡坐をかいていては、日本の未来も底が知れたものになる。
今と未来だけしか眼中に置かない社会は、うすっぺらだ。過去の偉人が残した歴史を土台にするからこそ、新しい発想が生きてくる。
私が言いたいのは、肉体的にも精神的にもよわっていくからだに寄り添う、社会機構であってほしいという事。
発展の邪魔とばかりに、そこには時間もお金もかけたくないと思っているのではないだろうか。
自分がその身にならないと想像できない。だから今のお年寄りに耳を傾けて、自分たちの未来を想像すべきだと思う。
いまのお年寄りが抱える問題を解決することで、未来の快適空間を生み出していけるのではないだろうか。
若者と高齢者の雇用均等法も考えてほしい。労働能力は、年齢と比例しないという事。
固定概念で差別をしてほしくないと思う。お年寄りの中にも思った以上に働ける人はいる。
だいたいが定年制を引いた時点で、高齢者をないがしろ的にする発想を感じる。
定年を過ぎてから働こうと思うと、企業に対してなぜか卑屈になって、遠慮がちになる。決して迷惑をかけているわけではないのに、言いたいことも言えない立場。おかしいと思う・・・。